ソーリーベイベー

一非常勤講師の覚え書きです。天津飯をこよなく愛しています。毎週月曜日21時更新です。その他のタイミングでも時々更新します。

『天気の子』を観た

以下ネタバレは含みませんが非常に批判的な内容です。『天気の子』が好きな方、新海誠監督のファンの方は気分を害されるかもしれません。
新海誠監督のファンでもなく、かと言って嫌いなわけでもなく、ただ『君の名は』だけは観たことのある一個人の見解です。そう思ってもし読んで頂けるなら幸いです。












昨日の夜レイトショーで嫁さんと二人『天気の子』を観た。
『君の名は』は僕達二人の初デートの時観に行った映画で、あの映画が良かったおかげでその日のデートもうまく行き、嫁さんと付き合うことができたという思い出深い作品。
『天気の子』も当然期待していた。

が、期待外れだった。同じ監督の描いた作品とは到底思えない。

一番問題なのは物語が全く必然性に到達していないことだ。そのキャラクターがなぜそこでそうするのか、必然性がまるで見えてこない。故にストーリーに納得できない。?マークが頭に浮かんだまま次々にストーリーが展開してしまう。
キャラクターの背景描写がガバガバなのも必然性を欠く要因になっている。足りない、全然足りない。これでなんとなく分かるでしょ、じゃ何も分からない。分かってるのは監督だけだ。背景も設定も薄い状況で必然に沿ってキャラクターを動かせると思っているのか。そもそも必然に沿おうとしているのか?必然性無く「監督個人の意志」で自由にキャラクターを動かせると思っているのだとしたら、それは物語全体に対するひどい冒涜だ。物語を作る上で誰もが苦しみ煮詰まるところを全然煮詰め切っていない。僕にはそれは怠慢に写る。その部分でものすごく腹が立った。

ストーリーも人物も、何も分からないままRADWIMPSだけが嫌というほど流れる。ひどいときは10秒前に流れてたのにまた流れる。RADWIMPSはもうええから、もっとちゃんと人物描いてくれ。人間が全員嘘くさいねん。音楽でごまかすなよ。こちとらRADWIMPSの長編アニメーションPV観に来たわけやないんや。

『君の名は』でもそうだったが『天気の子』にも民俗的な描写がちょくちょく入る。だけど『天気の子』では何故そこでその描写が必要なのか分からない。パッとパンチラのように流すだけで何がしたかったのか。物語の中に民俗描写を落とし込めていない。描写が浮いてしまっている。宮崎駿の作品にもそういう描写は非常に多いと感じるが、物語にちゃんと溶け込ませていて全く不自然ではない。『天気の子』の民俗描写は監督自身の恣意が見え隠れして非常にやらしい。物語が語るのではなく、監督自身が語ってしまっている。そりゃ反則だろ。

やたらと商品紹介が多いのも謎。YouTubeの広告か。

冒頭でも述べたとおり何故ここでこうなるのかという必然性に乏しい場面の連続で、物語の整合性がとれていない。それが全て。ストーリーとして破綻している。それでいて、至る所に監督の傲慢な恣意が見え隠れする。
もっと簡潔に、雑でいい加減だということだ。まるでバンドがアルバムのために無理矢理作った捨て曲聞かされてるみたいだと思った。

観終わった後嫁さんは「ちょっと何言ってるかわかんないっす」て言ってたし、僕は宮崎吾朗の『ゲド戦記』観た後の宮崎駿みたいになってた。

すごく良かったって書けると思ってたんだけどな。